ⅬⅦ|恐れが見るもの

Non est hoc timor, sed naturalis affectio inexpugnabilis rationi.

これは恐怖ではない。理性にも攻め落とせない、自然な反応である。


セネカからルキリウスへ、挨拶を送る。
バイアエ*1 からナポリへ戻らなければならなくなったとき、私は、もう一度船に乗らずに済むよう、嵐だとあっさり自分に信じ込ませた。
ところが、道中はどこもかしこも泥だらけで、結局、陸を行きながらも、やはり航海したと言ってよさそうなありさまだった。
その日、私は競技者の運命をまるごと味わうことになった。
最初に泥で塗られ*2 、そのあとナポリの地下道*3 で砂埃を浴びせられたのだから。

 

あの牢獄ほど長く感じられる場所はない。
あの松明ほど暗いものもない。
あれは、暗闇の中で物を見るためのものではなく、暗闇そのものを見るためのものだった。
仮にあの場所に光があったとしても、埃がそれを奪ってしまっただろう。
埃というものは、屋外でさえ重く、不快なものだ。
まして、あの場所ではどうか。
埃は自分自身の中で巻き返り、風の抜け道がまったくないため、それを立てた当人自身へ戻ってくる。
私たちは、互いに正反対の二つの不快を同時に味わった。
同じ道で、同じ日に、泥にも埃にも苦しめられたのである。

 

それでも、その暗さは、私に少し考える材料を与えてくれた。
私は、心に何かが打ち込まれるような感覚を覚えた。
恐怖ではない。
ただ、ふだんない出来事の目新しさと醜さが、私の内に一つの変化を起こしたのである。
いま私は、自分自身のことを話しているのではない。
私は、まともな人間からもまだ遠い。
まして、完成された人間からはなおさら遠い。
ここで言っているのは、運命がもはや支配権を失ったような人のことである。
そのような人でさえ、心を打たれることはある。
顔色が変わることもある。

 

ルキリウス、どれほどの徳も逃れられないものがある。
自然が、その徳に、自分が死すべきものであることを思い出させるのだ。
だから、その人も陰鬱なものを前にすれば表情を引き締める。
突然の出来事には身震いする。
高い断崖の縁に立ち、底知れない深みを見下ろせば、目がくらむ。
これは恐怖ではない。
理性にも攻め落とせない、自然な反応である。

 

だから、自分の血を流す覚悟は十分にありながら、他人の血を見ることには耐えられない勇敢な人もいる。
新しい傷の手当てを見ただけで倒れる者もいる。
古く膿んだ傷を扱ったり眺めたりして、同じように気を失う者もいる。
剣を受ける方が、剣を見るよりも、かえって容易な者もいる。

 

だから、私も先ほど言ったように、混乱とまでは言えないが、一つの変化を感じた。
けれど、光が戻ってきた最初の一瞬で、何も考えるまでもなく、命じるまでもなく、陽気さが戻ってきた。
そのあと私は、こう考え始めた。
すべての終わりが同じであるのに、私たちはなんと見当違いに、あるものをより恐れ、あるものをより恐れないのだろう、と。
たとえば、人の上に物見櫓が崩れ落ちるのと、山が崩れ落ちるのとで、何が違うのか。
何も違いは見つからないだろう。
どちらも等しく命取りである。
それでも、山の崩落の方をより恐れる人はいる。
それほど恐れは、結果ではなく、その結果を生むものを見るのである。

 

君は今、私がストア派*4 の人々について語っていると思うだろうか。
彼らは、大きな重みに押し潰された人の魂は保つことができず、自由な出口を得られないため、ただちに四散すると考えている。
しかし、私はその話をしているのではない。
それを言う人々は、私には誤っているように思える。

 

炎は押し潰されることができない。
押しつけられたものの周囲へ逃げていくからである。
空気も、鞭や打撃で傷つけられることはない。
切り裂かれることさえない。
ただ、自分が場所を譲ったものの周りへ、また流れ戻る。
それと同じように、最も繊細なものから成る魂は、捕らえられることも、身体の内側で押し潰されることもない。
その微細さのおかげで、自分を圧するものそのものを通って、むしろ外へ抜け出すのである。
稲妻は、どれほど広く打ち、どれほど大きく光ったとしても、ごく小さな穴を通って戻る道を持つ。
それと同じように、火よりなお細やかな魂には、身体のどの部分を通っても逃げ道がある。

 

したがって、魂について問うべきなのは、魂が不死でありうるかどうかである。
ただし、これだけは確かなこととして持っておきなさい。
もし魂が身体の後にも生き残るのなら、どのような仕方によっても、それが押し潰されることはありえない。
なぜなら、それは滅びないからである*5
不死に、例外はない。
永遠であるものに、害をなすものは何もない。

 


Quoniam nulla immortalitas cum exceptione est, nec quicquam noxium aeterno est.

不死に、例外はない。永遠であるものに、害をなすものは何もない。

Vale.


*1 バイアエ:ナポリ湾に面した古代ローマの高級保養地。温泉に恵まれ、元老院議員や皇帝も別荘を構えた社交・保養の地として知られた。

*2 ケローマとハーフェー:ともにギリシア語由来のレスリング用語。「ケローマ」は選手が肌に塗る泥状の軟膏、「ハーフェー」は組み合う際の滑り止めとして浴びせる砂・粉を指す。セネカは、泥を浴びたのちに砂埃を浴びるという競技者の一連の所作になぞらえて、自身の道中の体験(泥道の後にトンネルの砂埃)を語っている。

*3 クリプタ・ネアポリターナ(ナポリの地下道):紀元前37年頃、建築家ルキウス・コッケイユス・アウクトゥスによって建設された、ナポリとポッツオーリを結ぶ全長約700メートルの古代ローマのトンネル。ストラボン、セネカ(本書簡)、ペトロニウスによって言及される、古代のトンネルとしては数少ない記録の残る例。後世、ウェルギリウスの墓の伝承と結びつけられたことでも知られる。

*4 ストア派:ゼノンを開祖とする古代ギリシア・ローマの哲学の一派。セネカ自身もこの学派に連なるが、本書簡では魂の物理的性質(重さで潰されて四散するか否か)をめぐるストア派内の一学説に、あえて距離を置いた立場を示している。

*5 写本上の注記:この一文に対応するラテン語原文の該当箇所(propter quod non perit)は、The Latin Library等の底本で角括弧に入れられており、校訂者によって後代の挿入、あるいは本文として不審な箇所とされている可能性がある。


LVII. SENECA LUCILIO SUO SALUTEM

[1] Cum a Bais deberem Neapolim repetere, facile credidi tempestatem esse, ne iterum navem experirer; et tantum luti tota via fuit ut possim videri nihilominus navigasse. Totum athletarum fatum mihi illo die perpetiendum fuit: a ceromate nos haphe excepit in crypta Neapolitana.

[2] Nihil illo carcere longius, nihil illis facibus obscurius, quae nobis praestant non ut per tenebras videamus, sed ut ipsas. Ceterum etiam si locus haberet lucem, pulvis auferret, in aperto quoque res gravis et molesta: quid illic, ubi in se volutatur et, cum sine ullo spiramento sit inclusus, in ipsos a quibus excitatus est recidit? Duo incommoda inter se contraria simul pertulimus: eadem via, eodem die et luto et pulvere laboravimus.

[3] Aliquid tamen mihi illa obscuritas quod cogitarem dedit: sensi quendam ictum animi et sine metu mutationem quam insolitae rei novitas simul ac foeditas fecerat. Non de me nunc tecum loquor, qui multum ab homine tolerabili, nedum a perfecto absum, sed de illo in quem fortuna ius perdidit: huius quoque ferietur animus, mutabitur color.

[4] Quaedam enim, mi Lucili, nulla effugere virtus potest; admonet illam natura mortalitatis suae. Itaque et vultum adducet ad tristia et inhorrescet ad subita et caligabit, si vastam altitudinem in crepidine eius constitutus despexerit: non est hoc timor, sed naturalis affectio inexpugnabilis rationi.

[5] Itaque fortes quidam et paratissimi fundere suum sanguinem alienum videre non possunt; quidam ad vulneris novi, quidam ad veteris et purulenti tractationem inspectionemque succidunt ac linquuntur animo; alii gladium facilius recipiunt quam vident.

[6] Sensi ergo, ut dicebam, quandam non quidem perturbationem, sed mutationem: rursus ad primum conspectum redditae lucis alacritas rediit incogitata et iniussa. Illud deinde mecum loqui coepi, quam inepte quaedam magis aut minus timeremus, cum omnium idem finis esset. Quid enim interest utrum supra aliquem vigilarium ruat an mons? Nihil invenies. Erunt tamen qui hanc ruinam magis timeant, quamvis utraque mortifera aeque sit; adeo non effectu, sed efficientia timor spectat.

[7] Nunc me putas de Stoicis dicere, qui existimant animam hominis magno pondere extriti permanere non posse et statim spargi, quia non fuerit illi exitus liber? Ego vero non facio: qui hoc dicunt videntur mihi errare.

[8] Quemadmodum flamma non potest opprimi
– nam circa id diffugit quo urgetur –,
quemadmodum aer verbere atque ictu non laeditur, ne scinditur quidem, sed circa id cui cessit refunditur,
sic animus, qui ex tenuissimo constat, deprehendi non potest nec intra corpus effligi, sed beneficio subtilitatis suae per ipsa quibus premitur erumpit.
Quomodo fulmini, etiam cum latissime percussit ac fulsit, per exiguum foramen est reditus,
sic animo, qui adhuc tenuior est igne, per omne corpus fuga est.

[9] Itaque de illo quaerendum est, an possit immortalis esse. Hoc quidem certum habe: si superstes est corpori, opteri illum nullo genere posse, [propter quod non perit] quoniam nulla immortalitas cum exceptione est, nec quicquam noxium aeterno est. Vale.

出典は『倫理書簡集』第Ⅵ巻・書簡57番(Seneca, Epistulae Morales ad Lucilium, Liber Ⅵ, Epistula LVII、The Latin Library所収)です。